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東京・根岸 子規庵の庭

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 会社の先輩であるFさんとYさんと、午後3時に、両国駅で待ち合わせて、相撲見物に行ってきた。それまでの時間、東京台東区の根岸にある、子規庵を訪問した。正岡子規が、1902年(明治35)9月19日に亡くなるまで住んでいた家である。現在は財団法人が管理している。
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 室内は撮影禁止なので、庭に出て、外側から建物の写真を撮った。天気は曇りで、ときどき小雨がぱらついた。1時間ほど見学して、外に出たら、少し、陽が差し始めた。本日は、LEICA SUMMICRON R 50mm F2.0の筆おろしとなった。ボディーはNEX-5N。レンズはこの1本のみ持って行った。
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 亡くなる日の前日、子規は3句の俳句を詠んだ。
   をとといの へちまの水も 取らざりき
   糸瓜咲て 痰のつまりし 仏かな
   痰一斗 糸瓜の水も 間にあはず
 ということで、庭には、糸瓜(へちま)の棚があり、黄色い花が咲いていた。
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 この1句と、短い文章の中に、庭作りの心理がすべて語られているように思った。少なくとも、私の場合は、このように思うことが、たびたびある。
 句のほうには、自嘲が込められている。心惹かれる草花を、買ったりもらったりして植えているうちに、庭が雑然としてきて、全体としてみると、どうも美しくない。禅宗寺院の庭のような、あるいは高名な茶庭のような美的バランスや秩序とは縁がないな、という苦笑である。
 文章のほうは、思弁的であり、やや哲学的である。この小さな空間の、小さな草花を見るだけで、私は宇宙を実感できる、小さな草花や虫の営為、季節の変化を見ていると、永遠の時間も一瞬の時間も、ともに理解できる、ということだろうか。
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 無限の宇宙空間と、小さな庭。無限の時間と、手で触れることのできる季節の変化。この対比をあえて統合するようなことをせず、あるがままに直感的に把握しようとしたのが、文人の庭だと思う。
 ちょうど20年前、ドイツのワイマールにある、ゲーテが亡くなるまでの50年間住んだ家を訪ねたことがある。その庭に立ったとき、私は、「普通の庭だ」と感じた。だが、その普通さが、とてつもなくいいのである。大きな木も彫刻のような立派な美術品もなく、刈り込まれた芝生などもなく、あるのは普通の家庭の庭にあるような草花だった。
 このとき感じた、普通の庭の心地よさが、子規庵にもあった。文人の庭の、心地よさである。 
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 案内の男性に、「植えられている草花は、当時のものを忠実に再現したものですか」と聞くと、子規の句や文、それに彼が描いた絵に出てくるもの、例えばへちまや鶏頭は意識していますが、多くは、多分あったのではないかと思われるものを(テキトーに)植えています。また、種が飛んできたり、鳥が運んできたりしたものもあるかもしれません、ということであった。
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by withbillevans | 2012-09-22 22:16 | 書く
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